コレクション展2020「うつし、描かれた港と水辺」(10)

2020.3.10

横浜市民ギャラリーコレクション展2020「うつし、描かれた港と水辺」の魅力をお届けするブログ第10回です。(3月15日(日)まで毎日更新予定)
本日は特別展示「牛田雞村の描いた横浜―開港期の風景」から3点をご紹介します。


牛田雞村は横浜出身の日本画家です。今村紫紅らと親交が深く、実業家の原三渓から援助を受け、やまと絵の色彩やかたちに細微な描写を取り入れた作品を発表しましたが、1946年の院展出品を最後に画壇を去りました。横浜市民ギャラリーには雞村自身が横浜市に寄贈したといわれる作品が3点所蔵されています。このうち《蟹港二題》は関東大震災の3年後、1926年院展の出品作で、横浜の震災での被災状況を目の当りにした雞村が、横浜の復興を願って描いたとされています。

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■きょうの作品 その1


牛田雞村(1890-1976)

《藁街の夕(「蟹港二題」より)》1926年 絹本着彩 63.0×112.8cm


夜の闇と、そこに浮かび上がるガス灯や建物の中から漏れる光が印象的です。「蟹港」とは蟹が横歩きし、港が浜に通じることから横浜を、「藁街」は中国の漢時代に長安城中にあった町の名前から、転じて中華街を指すと考えられています。市街用のガス灯は1872年に国内で初めて横浜で点灯されました。1886年頃に当初の黄色い光から、本作のように青味がかったものに改良されています。人力車の車輪にゴムタイヤが採用されたのは明治20年代末(1896年頃)以降ですが、画中の車輪はそれ以前の鉄製のものに見えます。画面左に見える高いマスト状の構造物は、領事館などが旗を掲揚するポールです。雞村は横浜浮世絵や写真を参考に、特徴的な建物を組み合わせて画面を構成したようです。


■きょうの作品 その2


牛田雞村(1890-1976)

《蛮船の泊(「蟹港二題」より)》1926年 絹本着彩 62.1×112.9cm


穏やかな海面に、アメリカの軍艦が2隻浮かんでいます。左側の外輪蒸気船は船体に回された帯状の部分からポーハタン号と推測され、描かれているのは同船が艦隊の一部(のちに司令官が乗る旗艦)として交渉のためにやってきた、1854年のペリー再来航時の様子と思われます。同年2月初めに江戸湾・浦賀沖に入港してから3月末に横浜村に上陸するまで、艦隊は湾内に停泊しました。当時は多くの見物人が湾に押し掛けたそうです。画面右下から幕府側の交渉人が、右手より米軍の乗組員がそれぞれ船に向かっています。一見すると長閑な印象交渉を受けますが、両国の思惑が交錯する舞台でもありました。


■きょうの作品 その3

牛田雞村(1890-1976)

《関内》1926年 絹本着彩 63.4×100.5cm


「関内」は幕末、開港場の中心部と吉田新田の間に架けられた吉田橋に関門番所が設置され、その内部を呼んだことに由来します。浮世絵師・橋本玉蘭斎(五雲亭貞秀)の著作『横浜見聞誌』(初版から6版、1862~1865年)の中に、本作を反転させたような構図の挿絵が「本町南横通り」及び「本町北横通り」として掲載されています。画面右上の門を持ち塀で囲われた一帯は、現在の県庁の敷地内にあった神奈川運上所(横浜税関の前身)です。運上所を境に西側が日本人居住地、東側が外国人居留地に整備されましたが、日中は本作のように商店街を各国の人々が行き交い、活気に溢れていました。雞村は『横浜見聞誌』内よりも多くの国の人々を描いています。

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■トピックス ― 所蔵作品検索ページ

横浜市民ギャラリーが所蔵する約1,300点の全作品データを、2018年度よりホームページ上で公開しています。
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