2020.3.14
横浜市民ギャラリーコレクション展2020「うつし、描かれた港と水辺」の魅力をお届けするブログ第14回です。
(3月15日(日)まで毎日更新)
本日は3月8日のブログ(8)に続き、鑑賞サポーターによる「作品に描かれたスポット紹介 後編」 をお届けします。
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■ 鑑賞サポーターによる「作品に描かれたスポット紹介」後編
コレクション展で作品とお客様をつなぐ役割をしている鑑賞サポーター(ボランティア)が、「うつし、描かれた港と水辺」展の作品のなかに登場する横浜のスポット紹介を執筆しました!どうぞご覧ください。
※スポット紹介前編(1.横浜赤レンガ倉庫~3.横浜税関)や鑑賞サポーターの活動概要については、3月8日のブログに掲載しています。
4. 山下公園
バラ園がきれいな山下公園 撮影:鑑賞サポーター
山下公園は関東大震災で発生した瓦礫の埋め立て地を整備して、1930年に開園した国内初の臨海公園です。戦後15年間米軍に接収されますが、その後の横浜マリンタワーの建築や日本郵船氷川丸の係留、「未来のバラ園」造園などの再整備により、公園界隈は横浜屈指の観光地として賑わっています。大さん橋から山下ふ頭に至る全長800mの海辺のプロムナードには、在日インド人協会寄贈の「インド水塔」、「赤い靴はいてた女の子像」、サンディエゴ市寄贈の「水の守護神」など、海外との交流を感じさせる記念碑も点在し、見所となっています。
[サポーターおすすめポイント!]
本展出品作の石踊紘一《インド追想》に描かれているインド水塔をぜひ訪れてみては?
5. 横浜ベイブリッジ
間近に臨む横浜ベイブリッジ 撮影:鑑賞サポーター
1960年代、横浜港はコンテナ船の時代を迎え道路渋滞が激しくなりました。その緩和のため、横浜ベイブリッジは1980年に着工、1989年9月27日に開通しました。本牧ふ頭と大黒ふ頭を結ぶ全長860mの斜張橋(吊り橋)は、世界最大級です。主塔を2基建て、ケーブルを張り橋桁を支えています。本展出品作には建設中の写真や絵が数点あり、横浜ベイブリッジが横浜の新たな開発の発端となったことがうかがえます。日没後はライトアップされ、横浜港の夜景を演出しています。21世紀への現代的な歩みを象徴する軽やかで優美な、未来へ向けての橋といえるでしょう。
[サポーターおすすめポイント!]
本展出品作は1988年の横浜百景展にあわせて制作されたので、ベイブリッジは建設中です。
6. 大黒大橋
現在は白い大黒大橋 撮影:鑑賞サポーター
山下公園付近からの大黒大橋(画面中央あたり) 撮影:鑑賞サポーター
鶴見区大黒町と横浜港の一大物流拠点である大黒ふ頭を結ぶ大黒大橋は、1971年から3年かけて建設されました。現在は白い斜張橋ですが、当初は朱色に塗装されており、本展出品作にもその姿が描かれています。歩道もあるため、1980年代には釣り人も見られましたが、現在は横浜港やみなとみらい21とともに富士山を眺める絶景スポットとして人気があり、その眺望は関東の富士見百景に選定されました。隣接する横浜ベイブリッジや鶴見つばさ橋より認知度は低いですが、歩いて渡れば、その振動と海を見下ろす恐怖感を味わえる稀有な橋といえるでしょう。
[サポーターおすすめポイント!]
大黒大橋からの港風景を体感した後、反対岸から風景の中にこの橋を見るのもおすすめ!
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■ きょうの1点 mini
林 敬二(1933年生まれ)
《横浜港》1988年 油彩、キャンバス 91.0×116.0cm
今回の展覧会のメインビジュアルにもなっている本作には、建設中の横浜ベイブリッジと、その左手に朱色の大黒大橋(現在は上の写真のように白色)が小さいながらもしっかりと描かれています。
この作品は1988年の「横浜百景展」のために制作されました。林は当時、横浜駅の待合室の一番海側からの風景が気に入り、写真を撮って忠実にこの絵を描いたそうです。3月5日のブログ(5)でご紹介した小野肇≪横浜駅と港を望む≫は、同時期に横浜駅付近から撮影されており、林の作品に描かれた風景と見比べてみるとおもしろいです。
今回の展覧会にあわせて収録した、林敬二インタビュー映像もぜひご覧ください
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インタビューアーカイブ
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明日はいよいよコレクション展ブログ最終回。どうぞ最後までおつきあいください!
2020.3.13
横浜市民ギャラリーコレクション展2020「うつし、描かれた港と水辺」の魅力をお届けするブログ第13回です。
(3月15日(日)まで毎日更新予定)
本日は昨日に引き続き、第4章「港と水辺 アラカルト-版画と漫画の多様な表現」よりお届けします。
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■きょうの1点
柳原良平(1931-2015)
《運上所と英一番館》1988年 ポスターカラー、紙 72.1×102.4cm
東京生まれ。1964年に横浜に移住。画家、漫画家、イラストレーター、文筆家など、幅広く活躍し制作に打ち込む一方で、「横浜市民と港を結びつける会」という市民団体を設立し、横浜海洋科学博物館(現・横浜みなと博物館)の存続を支援する活動や帆船日本丸の誘致運動に携わるなど、横浜の文化振興に貢献しました。本作は、柳原が中心になって開催された「ヨコハマ漫画フェスティバル」に合せて制作されました。神奈川運上所(現・横浜税関)と、日本に進出した外資系企業の第1号といわれる英一番館が、開港当時の和洋折衷の様子を表すように描かれています。
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■トピックス ― 「今月の1点」
横浜市民ギャラリーの所蔵作品は、当館発行の情報誌『横浜画廊散歩』でも1点ずつご紹介しています。
ホームページでは「今月の1点」からは解説もご覧いただけます。
誌面と合せてお楽しみください。
2020.3.12
横浜市民ギャラリーコレクション展2020「うつし、描かれた港と水辺」の魅力をお届けするブログ第12回です。
(3月15日(日)まで毎日更新予定)
本日は第4章「港と水辺 アラカルト-版画と漫画の多様な表現」よりお届けします。
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■きょうの1点
萩原英雄(1913-2007)
《港風景》1988年 木版 60.9×46.4cm
山梨県生まれ。1938年東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科卒業後に浮世絵の複製を手がける高見沢木版社に就職しますが、5年後に召集。1953年結核のため療養所に入所し、その間独学で木版画の制作を始めました。初期の制作は木版社で学んだ技法を基にしていましたが、その後版木に建材やベニヤなどを貼り付ける製版法や、凸版が一般的だった木版の凹版化、本紙の裏から色を滲み出させる両面擦りなど独自の技法を多数創出し、後の版画表現に大きな影響を与えました。本作のような抽象表現に取り組む際、萩原は原画をつくらず、頭の中で組み立てながら版を彫り、摺り重ねていきました。木版のことを知り尽くした萩原ならではの手法です。
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■トピックス ― 所蔵作品検索ページ
横浜市民ギャラリーが所蔵する約1,300点の全作品データを、2018年度よりホームページ上で公開しています。
所蔵作品検索ページはこちら
作品画像の掲載点数も今後徐々に増やしていく予定です。
みなさまの調査、研究などにぜひお役立てください!
2020.3.11
横浜市民ギャラリーコレクション展2020「うつし、描かれた港と水辺」の魅力をお届けするブログ第11回です。(3月15日(日)まで毎日更新する予定)
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本日は、展覧会の第4章「港と水辺 アラカルト-版画と漫画の多様な表現」よりお届けします。
4. 港と水辺 アラカルト-版画と漫画の多様な表現
版画は木版や銅版などの主要な版種がよく知られますが、作家が創意工夫し技法を研究し、版と向き合うことから個性的な表現が多く生まれます。柴田昌一(1935年生まれ)はエッチングやアクアチントで漆黒の夜空を背景にみなとみらい21地区を描きます(写真上、左2点。下記「きょうの1点」で紹介)。巨大な月や手前の不思議な草木、幾何学的な構造物、そして浮かぶ船などを同居させ、幻想的な風景に仕上げています。由木礼(1928-2003)は、輪郭線を引かず複数の版を淡い水性インクで刷り重ね、空や海の色のグラデーションや、中央にそびえるタワー、海岸沿いの道路までも、やわらかにあらわします(写真上、右2点)。
版の上で試行錯誤を重ねる版画と対照的に、漫画作品は1978年の「ヨコハマ漫画フェスティバル」にあわせて展覧会直前に出品作家32名を一堂に集め、即興に近いかたちで描かれました。同展の中心人物・柳原良平(1931-2015)は、制作に際し作家に示した制作テーマのひとつ、横浜事始めを取り上げ、税関の前身である運上所や領事館が建ち並び、輸出入で賑わう開港期の横浜の様子を、ユーモアを交えて描いています(写真下、中央)。
■きょうの1点
柴田昌一(1935年生まれ)
《MM21(A)》 1988年 エッチング、アクアチント 29.2×37.9㎝
柴田は横須賀市生まれ。1960年に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)卒業。初期には平面とあわせ電気仕掛けの大型の立体作品も制作しましたが、銅版画家・加藤清美の作品に感銘を受け同氏の技法書で銅版画を独学で学びました。クリスチャンの柴田は聖書の世界観を基盤に、エッチングやアクアチントを主に用いて密集する無機質な構造物や植物が共存する近未来的な風景を制作してきました。本作には、巨大な月と近代的な建物が林立するみなとみらい21地区を背景に、日本丸に似た帆船が空に浮かぶ幻想的な風景が描かれています。作品が制作された1988年当時は沿岸にここまで多くの建物が出来ておらず、ゆえに想像を掻き立てられて描いた部分があるかもしれません。
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2020.3.10
横浜市民ギャラリーコレクション展2020「うつし、描かれた港と水辺」の魅力をお届けするブログ第10回です。(3月15日(日)まで毎日更新予定)
本日は特別展示「牛田雞村の描いた横浜―開港期の風景」から3点をご紹介します。
牛田雞村は横浜出身の日本画家です。今村紫紅らと親交が深く、実業家の原三渓から援助を受け、やまと絵の色彩やかたちに細微な描写を取り入れた作品を発表しましたが、1946年の院展出品を最後に画壇を去りました。横浜市民ギャラリーには雞村自身が横浜市に寄贈したといわれる作品が3点所蔵されています。このうち《蟹港二題》は関東大震災の3年後、1926年院展の出品作で、横浜の震災での被災状況を目の当りにした雞村が、横浜の復興を願って描いたとされています。
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■きょうの作品 その1
牛田雞村(1890-1976)
《藁街の夕(「蟹港二題」より)》1926年 絹本着彩 63.0×112.8cm
夜の闇と、そこに浮かび上がるガス灯や建物の中から漏れる光が印象的です。「蟹港」とは蟹が横歩きし、港が浜に通じることから横浜を、「藁街」は中国の漢時代に長安城中にあった町の名前から、転じて中華街を指すと考えられています。市街用のガス灯は1872年に国内で初めて横浜で点灯されました。1886年頃に当初の黄色い光から、本作のように青味がかったものに改良されています。人力車の車輪にゴムタイヤが採用されたのは明治20年代末(1896年頃)以降ですが、画中の車輪はそれ以前の鉄製のものに見えます。画面左に見える高いマスト状の構造物は、領事館などが旗を掲揚するポールです。雞村は横浜浮世絵や写真を参考に、特徴的な建物を組み合わせて画面を構成したようです。
■きょうの作品 その2
牛田雞村(1890-1976)
《蛮船の泊(「蟹港二題」より)》1926年 絹本着彩 62.1×112.9cm
穏やかな海面に、アメリカの軍艦が2隻浮かんでいます。左側の外輪蒸気船は船体に回された帯状の部分からポーハタン号と推測され、描かれているのは同船が艦隊の一部(のちに司令官が乗る旗艦)として交渉のためにやってきた、1854年のペリー再来航時の様子と思われます。同年2月初めに江戸湾・浦賀沖に入港してから3月末に横浜村に上陸するまで、艦隊は湾内に停泊しました。当時は多くの見物人が湾に押し掛けたそうです。画面右下から幕府側の交渉人が、右手より米軍の乗組員がそれぞれ船に向かっています。一見すると長閑な印象交渉を受けますが、両国の思惑が交錯する舞台でもありました。
■きょうの作品 その3
牛田雞村(1890-1976)
《関内》1926年 絹本着彩 63.4×100.5cm
「関内」は幕末、開港場の中心部と吉田新田の間に架けられた吉田橋に関門番所が設置され、その内部を呼んだことに由来します。浮世絵師・橋本玉蘭斎(五雲亭貞秀)の著作『横浜見聞誌』(初版から6版、1862~1865年)の中に、本作を反転させたような構図の挿絵が「本町南横通り」及び「本町北横通り」として掲載されています。画面右上の門を持ち塀で囲われた一帯は、現在の県庁の敷地内にあった神奈川運上所(横浜税関の前身)です。運上所を境に西側が日本人居住地、東側が外国人居留地に整備されましたが、日中は本作のように商店街を各国の人々が行き交い、活気に溢れていました。雞村は『横浜見聞誌』内よりも多くの国の人々を描いています。
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■トピックス ― 所蔵作品検索ページ
横浜市民ギャラリーが所蔵する約1,300点の全作品データを、2018年度よりホームページ上で公開しています。
所蔵作品検索ページはこちら
作品画像の掲載点数も今後徐々に増やしていく予定です。
みなさまの調査、研究などにぜひお役立てください!