©Yokohama Civic Art Gallery

川村信雄 かわむら のぶお
《横浜走馬灯》

1959年
油彩、キャンバス

※「横浜画廊散歩」2018年1月号に掲載

川村信雄は1892年父の赴任地熊本で生まれ、まもなく東京に転居しました。軍人を目指し開成中学校に入学するも、病気で中退。1908年に太平洋画会研究所で油彩画を学んでいた川端龍子に油彩画を教えてもらい、川村も太平洋画会研究所に入学。この頃より川上涼花や岸田劉生らとともに手描きの回覧雑誌『紫紅』をつくり、川村の自宅を事務所に10年に渡って刊行しました。後に鈴木信太郎らが加わった同誌のメンバーは、「紫紅会」として展覧会も開催するようになります。1912年には新たなメンバーを加え「雑草会」も結成され、会員の一人岸田劉生が発起したことからヒュウザン会(後にフュウザン会と改名)の創立にも加わります。同会は後期印象派やフォービズムに影響を受けた青年画家らから成り、川村も同様の画風を試みますが、わずか2年ほどで会は解散し、以降は戦後まで無所属で文展・帝展へ出品をしながら制作を続けました。1916年、父の転勤に伴い横浜に転居して以来横浜を拠点とし、1925年弘明寺にアトリエを設けます。ここで開いた「川村画塾」には多くの塾生や画家、子どもらが集い横浜の美術振興において大きな役割を果たしました。また横浜美術協会の再結成時(1932年)には洋画部の一員として加わりました。1965年第14回横浜文化賞受賞。1969年歿。

川村は1956年より太平洋画会の会員となり委員や理事を歴任しました。本作は同展に出品を重ね大作に意欲的に取り組んでいた頃の作品で、中華街のホテルのために描いた壁画のバリエーションとされています。蒸気船や人力車、ガス灯など、開港期の横浜を想起させるモチーフがダイナミックに組合せられています。行き交う人々の表情は見えませんが、そのことがまた、過ぎゆく時に思いを馳せるようなタイトルをよくあらわしています。対象を堅実にとらえながらも“空気”を描くことが大切としていた川村の制作における信条に相応しい作品です。

横浜市民ギャラリーでの展覧会:
1966年「横浜文化賞受賞作家絵画展」

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